2/19地下鉄サリン事件公判(証人:中川智正)簡略

2/19(木)
証人:中川智正(死刑囚)
サリン製造メンバー…大臣クラスの一部
林泰男:1994年夏ごろ、第7サティアンの配電作業(プラント本体には触れず)
豊田亨:1994年秋ごろ、第7サティアン本体について作業
杉本繁郎:中川の部下15人のうち1人
北村浩一:中川の部下15人のうち1人
新実智光:ダミーの薬品会社の代表
外崎清隆:新実の部下で薬品の仕入れを行う
横山真人:関係なし
広瀬健一:おそらく関係なし、手伝い程度
井上義浩:1994年夏~秋、第7サティアンサリンプラント案内
林郁夫:関係なし、1994年夏に第7サティアンサリンプラント案内
1994年7~8月の説法で、麻原が「サリン」について言及
このスピーチの対象は、中川と15人の弟子
「40日間で70Lのサリンを作ればステージ昇格」
「命がけでやってくれ」
地下鉄サリン事件以前にサリン生成に成功したのは3回
そのうち2回は無色の生成物、3度目は容器が溶けて着色
地下鉄で散布したサリンについても、ウィスキーが薄まったような着色あり
(VX:気化しない、揮発性なし ※VXガスと表記されることがあるが、ガスではない
 サリン:気化しやすい、揮発性が高い)
1995/1/1読売新聞「上九一色村でのサリン残留物検出」スクープ
これを知った教団は、すぐに強制捜査が入ると思い、ジクロやVXなどの中和作業を開始
はじめは土谷・Mが作業を行っていたが、有機リン中毒症状によりPAMを注射し休憩
その後中川が1/3まで1人で中和作業を行った
(宇宙服を着ながらの作業、サリンは皮膚からも吸うため)
☆ほかのサマナのワークについて詮索しないこと
…麻原と信者個人の1対1の関係を重視するオウムの教義によるもの
中川「麻原が怖かった」
1995/1/4 
永岡さんVX襲撃事件について井上から報告を受ける
その後、中和し忘れたVX(ビン2つ)とジクロ(1L)を発見
この段階で中和に必要な道具の解体が始まっており、中和は不可能
→ちょうどサティアンから外出する井上に持ち出しを依頼し、諜報省(CHS)のアジトである「今川の家」の納戸の冷蔵庫で保管
(その後中川が「今川の家」に行った際に、井上の字で冷蔵庫と納戸に「あけるな」の張り紙と目張りをしてあるのを見ている)
※中川は逮捕当時(平成7年)「ジクロをすべて中和するのはもったいないと思ったため、自分がクーラーボックスで屋外へ持ち出した」と証言
→その当時、教団がVXを生成していたという事実は知られておらず、ジクロが今川の家に保管されていたことを話してしまうと、井上がVXについても口を割ってしまうのではと心配したため
事実は1997年1月31日の自身の公判で証言
1995/3/18 
村井秀夫が中川に対し
「これ(※クーラーボックス)を持って、ジーヴァカのところへ行って話を聞いて来い」
サリン事件後、サティアンに戻ってきた広瀬を見かける
この際、広瀬には縮瞳が見られ、悲しくて微笑むような寂しそうな表情をしていた
中川は、声をかけなければと思った
1995年4月
逃亡中、中川が高橋と同席する場面
高橋「松本サリンは教団がやったとしか思えないんだが」
中川は虚を突かれて、沈黙してしまった
「関わっていないよ、とはとても言えなかった。返事をすることができなかったが、高橋はこの無言を肯定と受け取ったのではないか」