3/26被告人質問②

 

*被害者・遺族意見陳述

<オウム家族の会代表の男性>
平成24年12月、被告人に向けて手紙を書いた
オウム信者の脱会のために力を貸してください」という内容
今回被告人の姿を見て悲しかった
自分の意思がない人間だと感じた
送った手紙の気持ちも届いていない
返信もなく、悲しかった

どのような処分を望むか?
もう終わったんだと
これからの新しい人生、世の中に通じる人間になってほしい
刑罰については?
私は人を裁くことはできないので、刑罰についての希望はない
被告人を取り巻く人たちに、悲しい思いをさせてほしくない
無罪を主張しているが、何も知らないというのならそれは間違いだと
許すと言っているのではない、償ってほしい

我々大人がそこまで放っておいた責任もある
元の人間に戻してあげたい
親御さんに対しても、親も変わろうと言いたい
また、簡単に宗教法人を認可した行政には恨みを持っている
麻原とは何度も会っているが、彼は金目的ではない
人間破壊を目的にしていた
信徒によって説法も変えており、当時からこれはとんでもないことになると思っていた
被告は麻原の操り人形だったが、自分の頭で考えている部分もある
中川から「高橋くんをよろしく頼みます」と言われている
最後に、あなたにかかわるすべての人を悲しませないでほしい
ありがとう

<仮谷清志さん長男>
事件のあと、家族の誰かがまた誘拐されるのではないかという不安があった
1995年6~7月、父が死んだと報告を受けた
1995年3月21日に「明日強制捜査が入る」と報告を受けていたが、教団にもばれていて、期待は薄かった
いろんな教団の施設のどこかに監禁されているんだろうと思っていた
父はお風呂が大好きだったので、私も私の母も「お風呂に入れてもらえているんだろうか」と思っていた
強制捜査の際、幹部の逮捕への期待はあった


5月中旬、井上が逮捕されたと知り、井上なら父の居場所がわかるだろうと思った
6月に入り、警察から「複数の幹部の証言から、亡くなっているとみられる」と連絡があった
生きて返してほしいという気持ちはあったが、その時は、やはりという気持ちが強かった
遺体については、大きな電子レンジのようなもので処理し、灰は本栖湖に捨てたと聞いた
ある意味完全犯罪に驚いた
死は受け入れられたか?
今でも信じがたい
なぜなら、私もおじいさんおばあさんの死に際を見て、死を確認した
父についてはそれが出来なかった
遺体を確認していないので、今父が帰ってきても何の抵抗もなく受け入れられる
死亡届については、ひとつの区切りをつけなければならないと思い、知人とのお別れの場として10月22日(日)に父の葬儀を行った
遺体はないが代わりの物として、位牌が撒かれた本栖湖に案内してもらい、石を拾ってきた

ほかの被告の裁判を傍聴した思いはどういうものだったか?
殺人罪ではなく拉致監禁致死罪だったため、どうやって死んだのかハッキリしないという思いからだった
逃亡中の2人に対してはどのような思いだったか?
村井さんが殺されたように、犯罪を隠すことを平気でやる集団だから、口封じをされてこの世にいないのではないかと思っていた
どういう思いで参加制度を利用したのか?
まだ、父の死の場面には納得できない
もっと詳しく知りたいという思いがあった

お父さまはどういう方だったか?
正義感が強く、公証役場で働く前は裁判所の書記官をやっていた
曲がったことが嫌いで、まっすぐな人だった
プライベートではパチンコ・麻雀・競馬を好んでいた
家族旅行は年に2回は行っていた
心の支え、大黒柱、やさしい父だった
事件のあった95年の1月に父から「今年から家計は実に任せる」と言われていた
ある意味で父が私を一人前とみなしてくれたと感じた
一方で精神的には支えてもらっていた
自分が1歳半の頃、ポリオにかかってしまった
その際必死に看病してくれ、足だけの麻痺で済んだ
学区の小学校から、障害者は障害者の学校へと入学を断られた
しかし、両親が支援ではなく一人で生きられるようにと関係者等に相談をして、普通の学校に入学することができた
父に対して恩返しを始めようとしたときの事件だった
ありがとうと言えないまま、残念です

量刑の物差しを私は持っていない
それぞれの役割について検討してほしい
「私は運転だけ、車へ押し込んだだけ」という裁かれ方には納得がいかない
適切な審理の上、ご判断いただきたい
このような機会をいただき、ありがとうございました

*被告人質問

逮捕時に40冊の本を持っていたが、どのような内容の本か?
教団の本、仏教書、シャーマニズムの本など
一連の事件後に買い集めたもの
なんのためか?
結局、教団の一連の事件は何だったのか
教義を他からみるとどのような意味合いだったのか
いろんな立場の人の考え方を知りたいと思った
そういった疑問は、何かの拍子にいつも浮かんでくるものだった
仏教書から得るものはあったか?
オウムの基本的な教えとはそれほど違いがないという確認をした
カルロス・カスタネダの本については?
初めはなんとなく読み始めたが、伝統仏教との共通点があった
中沢新一の「三万年の死の教え」については、チベット仏教の生死観を知りたいと思い読んだ

ヴァジラヤーナの説法は、たとえ話として聞いていた
これが本当に実践されていることを受け入れられたか?
自分の中では葛藤があったような、それを受け入れようと努力した
かなり混乱した状況だった
その後解決したか?
分らないことが多くなって、ますます分らなくなったところもあります
今現在はどのような状況か?
一言では言い難いものがある
今ここに麻原が来て、あなたに「弁護人(本人実名)を殺せ」と言われたらどうするか?
(数十秒沈黙)
できませんと言うしかないです
逃走中に世の中を不安にさせていると思いはあったか?
あった
出頭しなかったのは、井上にも言われたが逃げろと言われていたこと
生活に追われながらも修行をしたい、出頭したら修行をしにくいのではと思っていた
平田の出頭のことは知っていたか?
数日中には知った
一言では言い難いいろんな思いと、ショックを受けた
何がショックだったのか?
平田は背も高く目立つ
所沢にいたときに一度来て「海外に逃げたい」と言っていたので、彼は国外にいると思っていた
日本にいたんだという驚きがあった
自分の出頭についても少しは考えたか?
考えていない
菊地逮捕のニュースを見てどう感じたか?
もう自分の居場所もわかってしまうと思い、逃げた
貯金として458万円を持っていた
教団からもらった逃走資金はもう全く残っていない
今は400万円くらい持っている
少しでも遺族に支払おうと思ったことはないか?
そのことは考えたことがある
でも実行していないんはどうして?
自分の裁判について少し関係があった
逮捕されて、弁護士と話が出来るようになり、その中で謝罪の話になった
謝罪すべきかアドバイスをいただいた
まず自分の考えがまとまらないうちに謝罪という形になっても、もっと深く考えた末のことでなければ謝罪が虚しいものになってしまうと
もう一度自分自身を振り返って、いろいろ決めたらいいと言われたので

逮捕時に持っていた40冊のうち12冊が麻原の本
これらは事件後の逃走期間中に買ったもの
何を言っていたのか振り返る必要があると思ったので
カセットテープも持っていたが、聞いていない
最後に聞いたのは20年前の所沢
麻原と被告が2人で写っている写真も所持していたが、いつも持ち歩いていたのか?
(検察側から供述明確化のため証拠の提出希望→弁護人異議→証拠却下)
1987年に撮った写真
記念写真のようなもので、その場にいた人間は全員撮った
どのような思いで持っていたのか?
撮ったから、持っていただけ
被告は麻原をグルと呼ぶが、今でもグルなのか?
(沈黙)
まぁ、どうでしょう
向こうが弟子と思っているかは分らない
話し合ったわけではないので、その関係は続いていると思っています

続く

3/26被告人質問①

3/26被告人質問①

<都庁爆発物事件について>
RDXは、ケースに入っているものを減らしたりせずにセットした
鉛玉は見ていない
乾電池などが破片になって人を傷つける可能性はあると思っていた
発火装置を作るのに怖さはなかったか?
なかった
怖さがあったらやっていない
どうして切手を買いに行ったのか
誰かが買いに行かなければいけないと思った
会話の流れ

<修行について>
ヴァジラヤーナ教学教本は知っているか?
読んだことはある
サリンやVXについての説法はほとんどなかった
信徒用決意を何度も唱えたのでは?
井上の運転手になってから修行をしていなかったから、覚えていない
「悪趣を一人でも二人でもポアするぞ、最終戦争において必ず聖なる軍隊に属し、そして悪趣をポワするぞ」というヴァジラヤーナの決意については?
ほとんどやっていない

<所沢での生活について>
出頭するかどうか、話し合ったことがあるのではないか?出頭してもいいという人がいたのでは?
たしか、いたと思う
あなたはどう意見を述べましたか?
記憶がないが、結局出頭しないことになった
あなたが反対したのではないか?
当時の気持ちを考えると言ったかも

<教団が製造した毒物について>
教団が作ったVXが、麻原の説法にあった猛毒と同じだと思っていたか?
思っていなかった
①水野さん事件で見張りをしているときに毒物と説明があったが、水野さんに何もなかった
②教団の科学技術省で作られたものだから
という理由

教団施設での異臭騒ぎのときはどのように捉えたか?
教団が攻撃を受けているという話を聞いて、はじめは実感がなかったが、その記事を見て攻撃を受けているのかなと思った

地下鉄サリン事件の際、渋谷ホームズで袋を手に持っている人がいるのを見て、「なんだろう」と思っていた
撒いたあと、1週間後~10日の間にイロンナことが分かって、「あ、サリンだったのか」と思った
その時、サリンを教団が作っているのかと思った
それ以前はそのことについて知らなかったといえる

裁判員質問>
当時のVX事件に対する認識について
基本的には救済だと、そういう手伝いをしているという認識はあった
事件後に山形を褒めたのは間違いないか?
その時の状態というのは結局、一連の事件の見張りをほとんどしていて、そこで急遽サポート役となった
精神的に一種、うまく表現できないが、緊張が高く、精神的に不安定になっていた
救済とはどのようなことだと認識していたか?
グルの意思を実践すること

<裁判官質問>
今川の家での生活状況について
1994年の中頃くらい(省庁制ができる前後)から使用を開始した
使用していたのはほとんどがCHSの人間
具体的に、井上、HS、私、HT、MTなど
井上は掘りごたつの部屋で生活していた
HSと私が4畳半の部屋だと言われたが、部屋には平田のワークの荷物が沢山あった
廊下があいていたので、私はそこでいいかなと思い、廊下で寝ていた
今川の家を拠点にしていない人もいた

水野さん事件の後、水野さんはピンピンしていたと誰から聞いた?
2回目にVXをかける前、井上から聞いたと思う
浜口さん事件について
事件は大阪だった
浜口さんは公安のスパイだと聞いていた
公安のスパイだと初めて聞いた時、どのように思ったか?
オウム真理教を探っているのかなと思った
いい人だと思ったか、悪い人だと思ったか?
いい悪いまでは考えていない
ホテルコンソルトでの会話には参加していない
内容は耳に入ってこなかったか?
当時は断面的に聞こえていたかもしれないが、今は記憶にない
話し合いの時に一度、中川から「柔道家は足が遅いんだよな」と言われ、あながち間違いでもないので肯定したことは記憶にある
なんでそう聞かれたのか?
考えていない

VX事件の前の認識について
中川はどんなワークをしていると思っていたか?
当時、お医者さんであることは知っていたが、富士道場では雑用もやっていた
グルの近くにいる人だという認識はあった
VXを一滴かけたら具合が悪くなると思っていたのはいつ?
特定できない
一度目は何ともなかったのに、二度目の前にそう思っていたのはなぜ?
井上が毒物のことを言っていたため
他に根拠はない

裁判員質問>
被告はお父さんの遺体を見て、出家をやめて戻ることはできないと思ったと言ったが、下向するとどうなると思っていたか?
あまりいいような生活、というか輪廻等においていい結果が出ないだろうと思っていた
下向したいという思いはあったか?
思いというほど強くはなくても、そういった折に、修行をやめて現世に戻ったらどうなるのかなと思うことはあった

*仮谷事件
井上への疑念について
彼はグルから指示を得ていると思っていたが、受けた指示をちゃんと理解して我々に伝えているのか、だんだん信用できなくなった

目黒通りから公園に到着するまで、どこかに車を駐車したか
記憶にないが、どこかで停まったような気もする
なんで公園で車を乗せ換えたと思った?
白昼の行為だったので、その車を見ている人もいそうだったから変えたという認識
ワゴンからセダンに変えたことについてはどう思うか?
適した車がなかったからという認識
いったん駐車したのはなんのためだった?
覚えていない
車に乗ってから、車内をフラットにした
車の運転は乱暴だった
中川が仮谷さんに注射をしていた

遺体焼却について
なぜ地下に運ぶのか知っていたか?
「焼却するので地下へ」という指示だったので、知っていた
運ぶ際、体のどの部分を持ったか?
布団ごと運んだ
ドラム缶がどういう装置か理解していたのか?
これが焼却する装置だな、と思った
何人でやったか、どこを持ったか持っていないか、記憶にない
焼却後に今川まで戻る際の記憶はあるか?
解散になったのは中川か井上の指示
中川さんが仮谷さんの持ち物を集めていた
その中に時計があったことを記憶している
ご位牌は見たか?
見ていない
中川が装置を止めたか状態を見た後で、「もういいです」と言い、解散になった
位牌がどうなったか知っているか?
そこまでは当時は知らなかったし、聞いた記憶もない
地下に焼却装置があることは知っていたか?
知らなかった
中川が集めた荷物をどうするか、どうしたかは知っているか?
わからなかった

現場でレーザーが使えないことを知り、役割分担があいまいになった
レーザーはボディーガードの目くらましとして使う予定だった
デリカ社内では、頭が後ろで仰向けの状態で寝かしていた

事件当時の自分は、身長が173cm、体重が72~73kgくらいだった
手配写真はパスポートの写真で、20代の頃のもの

仮谷さんには、「いなくなった人に関連していた人が心配しているので教えてください」と誠意を尽くしてお聞きするつもりだった
強引な連れ込みのあとでもそれができると思っていたのか?
ああいう形になるとは思っていなかったため、車で動転というかショックで、正直そういうことは考えられなかった
でも、当然話を聞いたあとは返すという認識だった
その後警察に行かれるとは思っていなかった?
最初の様相とはずいぶん違うとは思っていた
中川が車内で注射を打つ時、なにか感じなかったのか?
中川が事前に注射を準備していたことに違和感はなかった
先ほど、井上に対して疑念があったと言ったが、麻原自身が間違った指示をしていたという可能性はないか?
考えてみたことがない
理解が難しい指示もあったが、指示が間違いだと思うことはなかった

地下鉄サリン事件

科学技術省のメンバーとともに渋谷ホームズに到着し、その後井上が到着
その際渋谷ホームズでの位置関係は?
結構ばらばらだった
部屋の中心あたりに井上が入って、話し始めた
自分は壁際にいた
井上は立っていて、それ以外はみんな座っていた

地下鉄サリン事件の前に山形が頻繁に今川にいたと言っていたが、どういう理由で?
聞いていない、期間も記憶がない
今川では、師のステージの人は4.5畳の部屋を使うという認識

井上から呼ばれて今川の家に行った際に運転のワークと聞き、なんだと思ったと言ったが、科学技術省の人がいて何か考えたか?
なんのワークか分からないが、ワークで東京に来たのかなと思った
井上に呼ばれたとき、CHSではいろんなことをしていたため、運転ではなくもっと重大なワークだと思った

*都庁爆発物事件
発火装置製造の際、中川から取り扱いについて注意を受けたことは?
ない
4月の下旬、永福のアパートで林泰男から「アーちゃんが呼んでるよ」と言われた
どうして中川と作ることに同意したのか?
中川が井上と同じような考えを持っているとわかり、井上一人の考えではないんだなと思った
協力しようと思った?
そういう感じ
本をくりぬく作業はどのように進めたか?
覚えていないが、線を引いてカッターで切りすすめた
くりぬくサイズは適当だった

裁判員質問>
十戒について話していたが、ファミレスに行くのはいいのか?
基本的にはだめ
ファミレスに入るのは、ワークとして上司の許可があれば可能
逃走中に他人の住民票を覗き見るのは十戒に引っかかるのでは?
それはそうだが、当時はやむなくそうなってしまった

平成7年3月の昇格についての尊師通達は、印刷物が回ってきて知った
支部道場だとすぐに連絡が来るが、自分のところには一拍遅れて届くことが多かった
同時腹を割って話せる信徒仲間はいたのか?
いなかった

3/24被告人質問④


<1995年5月からの17年間について>


爆発物事件の後、北村などとともに永福から小金井のアパートへ移った
しかし、ひっそりと潜むには適さない場所だったため、一晩のみ宿泊した
その時点で逮捕状が出ていたが、出頭しようとは思わなかった
それが井上の指示だったので、麻原の意思だと思った
一言では言い難く、うまく言えないが、根底には修行だという認識があった
小金井のアパートを出た後は住居が借りられず、北村とともにサウナ等を泊まり歩いた
結局林泰男の指示で、YZが所沢にアパートを借りて、そこに一緒に住んだ
6畳ワンルームに、MS・北村・私・YZ・TGが住んだ
その後TGと入れ替わりで菊地直子が住み始めた
生活資金は主にYZが稼いでいて、月15万円くらいで生活していた
食事はいわゆるオウム食に近いもの、ご飯、野菜煮、豆腐、納豆などを食べていた
そこでは少し自分なりの修行をしていた
一連の事件について考えたり、教義を理解しようとしたり、本を読んでいた
オウム以外の本も読んだ
ほかの人は、瞑想や経典を読んで過ごしていた
中には、オウム以外の本を読んでいる人もいた
所沢での生活は半年~1年位
その後そこにはいられなくなって、各自でそこを出た
いられなくなった理由は、精神的に不安定になったYZが家に帰ってこないなどの問題が発生したため
自分は菊地と一緒に出て、ホテルなどを泊まり歩き、最後は1997年末頃に川崎へ移った
川崎は私が働いていた会社の寮
仕事は現場プラント関係の労働作業員で、櫻井信哉という名前で働いていた
菊地は櫻井千鶴子という名前で倉庫関係の仕事をしていた

偽名なりすましのきっかけは、区役所でこの名前の2人が手続きしているのを盗み見したこと
給料は日給1万2千円で、生活はできた
会社の人から身元を疑われることはなかった
誰からも手配写真についての追及がなかった
菊地についても、そういったことはなかった
最初の半年~1年は、手配写真が貼ってある所の前を通らないなど、色々気にして生活していた
しかし、派出所やおまわりさんとすれ違っても大丈夫だったので、写真と自分はそんなに似ていないのではないかと思い始めた
そして、全く事件を忘れたわけではないが、緊張した生活から解放されていった
はじめは櫻井という名前を呼ばれたら気をつけて返事をするようにしていたが、それが自然になっていった
プラントに仕事では色々なところへ行かされるが、長くいたのは石油プラントの作業員
2003年~2004年に仕事を変えて、ごみ焼却所の作業員になった
1つ目の仕事で溶接を覚え、2つ目の仕事では溶接工として働いた
その後、菊地とともに川崎市内で別のアパートに移った
菊地は途中でそのアパートを出て行った

会社内で自分の生い立ちを語る場面などなかったか?
寮付きの会社ではそういう話にはなりにくいが、時々あった
かなり本当のことを言っていた
逃走中にほかのオウム関係者と連絡を取ったことはない
アーレフは知っているが、連絡はない
逃走中にどのような本を読んでいたか?
チベット密教系、カルロス・カスタネダの本、中沢新一の本などを買いあさっていた
オウムの教義がどのような意味合いを持っていたのか、あの事件はどうだったのか、ほかの人はどう言っているのか、対応する教義があるのか知りたかった
事件について思い起こすことはあったか?
時たま報道は見たが、思い起こすことはなかった
事件についての記憶は薄れて行った
逮捕時には、記憶の程度はかなり薄く、不正確だった
また、ずっと桜井信哉だったため、高橋克也の名前に反応しづらかった
逮捕後数ヶ月間は署名を書く際も櫻井と書きそうになったり、名前を呼ばれても一拍置いてから気づくような感じだった
数か月が経って、だんだん記憶が整理され、ポツリポツリと思いだすようになっていった
間違って覚えていたことが、弁護士の質問によって間違いだと気付いたり、差し入れしてもらった資料を読んだりしていた

~検察官質問~

逮捕から資料差し入れまでは半年あったが、その間には何も思い出さなかったのか?
そんなことはなくて、取り調べの際にも記憶が呼び起こされたりしていた
黙秘していたため、それを検事や刑事に伝えることはなかった

CHSに入るきっかけは何だったのか?
省庁制の前から、上からの指示で井上担当のドライバーをやっていた
その流れでCHSに入ることになった
盗聴の対象は?
下向した信徒の居場所を知るためだった
井上から盗聴の目的の説明はあった
不法侵入については?
はじめは広島の三菱に1~2度侵入した
その際は自分は侵入せず、車の中で見張りをしていた
実際に侵入したのは井上とHS
彼らは何かの資料を持ってきていた
そういう話をしていたのを聞いていたので、レーザー関係の資料だったのではないかと思う
岐阜大学に侵入した際も、自分は見張りをやっていた
そこでは何かの金株を持ち出したのだと思う
それが何だったかは知らないし聞いていない
省庁制が導入されたあと、川崎の会社に侵入した際には自分も中に入った
キャビネットに入ったファイルを持ってきた
井上からやることを端的に説明されていた
目的やなんのための行為かは聞いていないし、考えていない
井上の独断だとは考えていない

<VX事件について>
神通力がVXの隠語だとわかっていたのか?
わかっていたが、面と向かって説明を受けたのではないと思う
VXについての麻原の説法を聞いたのはいつ?
水野さん事件の前か後かわからない
事件の前に聞いていた気もする
VX事件後のステージ昇格はどうしてだと思った?
考えなかった
ステージ昇格が水野さん事件の褒美だと思わなかった?
ステージ昇格は褒美として与えられるものではない
何か非合法活動と関係しているのではないかと思わなかった?
思わなかった


終了